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【現地ルポ】被災者の心の拠りどころを再建する

2021年03月2日
地方創生

マグニチュード9.0と発表された東北地方太平洋沖地震。近親者を亡くした多くの方にとって“心の拠りどころ”となる寺院再建に尽力した池田建設の取り組みを紹介。

震災直後、変わり果てた東北の地を目の当たりに
建設会社としてお手伝いできることを探していた

 2011年3月11日14時46分、宮城県沖の太平洋の海底を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が日本を急襲。宮城県内で震度7の揺れを観測したほか、太平洋沿岸の広い地域に10メートルを超す津波が押し寄せた。後に『戦後最大』『未曽有の大災害』と表現されることとなった東日本大震災は、多くの命を一瞬にして奪い、人々の日常を大きく変えた。
 池田建設株式会社 東北支店長の矢島はその日、商談のため茨城にいた。尋常ではない揺れが収まった直後、“震源はどうやら仙台沖らしい…”という情報を入手。脳裏によぎったのは“これまでお世話になってきたお客様は大丈夫なのだろうか?”“仙台の街は大丈夫なのだろうか?”という心配と不安だった。これまで矢島がかかわってきた案件は仙台のみならず東北全土に広がっている。すぐに関係各所に電話を入れてみるも、現地も混乱しているため連絡がつかない。いてもたってもいられなくなった矢島は、すぐに社長の了解を得て仙台入りを決断。震災発生から5日後、あらゆる交通網が寸断されている中、秋田経由で被災地に入り、変わり果てた街の様子を目の当たりにした矢島は言葉を失った。
「道路も中心以外はすべてヘドロで埋まっていて、車が通れるようなスペースなどありませんでした。その脇の排水口で遺体が発見されるという生々しい状況でした」
 バスや電車、タクシーなど公共交通機関はすべてストップ。自転車に乗って現地確認をするよりほか手段はなかった。
「訪問する先々で、衝撃的な光景を目にします。津波が吹き溜まるところに自動車が積み上がっていて、その脇には人海戦術で泥をかき出している人たちがいました。そんな様子を見ていると、建設会社として我々が何かお手伝いできるのではないだろうか?という気持ちが生まれてきます」
 また、このままでは建物の所有者も二次災害の加害者になる可能性もある。とにかく何とかしてあげたいが、混乱の中では施工班を動かすのも難しい…。焦りにも似た忸怩たる思いが矢島の中に沸き上がってくる。
「すぐに本社に連絡を入れて許可を取り、私たちが手当てできるところに関しては手配をしていきました。しかし、後にわかることですが、あれだけ規模の大きな災害となりましたから、建築資材も人手も不足するという状況に。お役に立ちたいのに、それを実現できない悔しさがありました」
 池田建設本社営業部 社寺担当部長である清水は、関東地域でも鳥居が倒れたり、寺院の建物が崩壊した報を聞き心を痛めていた。「これまで、社寺関連工事の営業として多くの神社や寺建築関連の仕事に携わってきたので、何かお役に立てないものかと思っていました。横浜の寺院で伽藍建立の仕事を携わり、同じ気持ちを抱いていた設計事務所の方々と共に、曹洞宗ボランティア団体副会長の住職から被災寺院の幾つかを選んでいただき、岩手県にある江岸寺の状況をお聞きして、矢島と一緒にうかがうことにしました」
 江岸寺のある大槌町は、日本の岩手県上閉伊郡に所在する町。全域が三陸ジオパークの一部をなす太平洋に面した風光明媚な場所であったが、震災の被害は殊更に大きかった。人口の約1割に当たる1200人以上が死亡・行方不明に。地域とのつながりも強い寺で、毎年避難訓練で避難先として使われていた本堂に高齢者が集まってきたが、海岸から700メートルの距離にあったため6メートルの屋根まで津波が達した。当時の副住職(現在のご住職)と奥様が一命をとりとめたが、残念ながら住職と副住職のご子息が行方不明に。その後の火災で本堂は全焼してしまった。

被災した大槌の街にとって特別な存在だった江岸寺
檀家も町議も一体となった大プロジェクトに

 震災から5か月が経過しても尚、震災でご家族を失ったご住職の悲しみが癒えるわけではない。それでも大槌町の人々のために前を向いて進もうとしている。そんな姿に矢島も清水も心打たれた。
「やはり、震災で亡くなられた方々の葬儀をする場所は必要です。石巻周辺では、被災している人たちを火葬する場所がなく、山の頂上を重機で穴を掘って一時的に埋葬する光景も目撃しました。それではあまりにも忍びない…。ですから、ご住職とその弟さんとしては、なんとか仮本堂でもいいから用意したいというお気持ちを持っておられた。東北の資材不足という状況もご理解いただいていたので、ひとまずプレハブを仮本堂として用意することにしました」(矢島)
「心の拠り所になると思いました。沢山亡くなられた方がいる中、お坊さんに供養してもらうことで少しでも心が安らげばいい、心の復興につながればいいと。地域にお寺が全くない状態でしたので、場所としても心の拠り所を提供したいと強く思いました」(清水)
 矢島と清水の中には、“目の前で困っている方のお役に立ちたい”というシンプルな想いがあった。もはや、その先にある営業的損得など考える余地すらなかった。
「当時は資材も高く経済的な余裕もない状態。住職はオリンピックが終了して資材が安くなるであろう時期を目指しての長いスパンで再建を考えておられました。再建するには寄付も集めねばならず、皆が被災して自分の生活再建もままならぬ中、先には到底できないだろうということでした」(清水)
 しかし、プレハブの仮設本堂の設置も、なかなか思うように進まない。「結局、都市計画が決まって、盛り土が終わらなければ設置ができない。やりたくもできないジレンマがありました。しかし葬儀を実施したいという声はどんどん高まっていきます。そこで、盛り土がされていない場所に仮本堂を建設。後に移設しようと考えました」(矢島)
 本格的な本堂再建の動きも同時に進んでいた。1100名ほどの檀家の方々が、“自分たちの生活以上に江岸寺の再建が最優先”と考え、積極的に資金の寄付を開始。その思いに心動かされたご住職も本格的な再建を決意した。しかし境内のスペースは限られており、本堂再建までの間、プレハブの仮本堂を設置する場所の確保が難しくなった。
「復興計画が決まる前に仮本堂の建設を計画して実施しましたが、やがて復興計画が決まって盛り土が進捗。仮本堂と一部計画反対の墓地だけが低い土地に建設されていたため、その状態で1回目の移設を実施しました。さらに復興計画の盛り土が完了し、寺院と周辺の区画整理が終了。墓地に仮本堂が掛かるため、2回目の移設を行いました」(矢島)
 2度の仮本堂移設を経て、ようやく本堂の再建に着手することになったのは2017年のこと。震災からすでに7年が経過していた。
「正直、ここまでお手伝いできるとは思いもしませんでした。足掛け7年間、相当数通いましたし、ご住職とは同い年ということで、お互いに特別な気持ちがわいていました。“ちゃんとした本堂を建てたい”とお気持ちが固まったとき、本来であれば他の業者と比較する必要もあったのではないかと思うのですが、手放しで『池田に任せたい』とおっしゃってくれたのは、正直、嬉しかったですね。商売抜きでお役に立ちたいという気持ちではありましたが、ここまで携わってくれば、他に任せるのではなく最後までお役に立ちたいという気持ちがありました」(矢島)
 本堂の再建には、ご住職はもちろん、町の方々も話に加わって進められた。
「初回訪問時から同席頂いた、横浜の寺院を紹介し、岩手県訪問の背中を押してくださった大本山薬師寺の元事務長の方、横浜の寺院を設計し江岸寺の設計も携わることになる設計士の方も共に動いてくださった。また檀家さんの中に町議の方もいて、議会や復興計画の様子をうかがい、まさに町を巻き込んだプロジェクトとして進めることができました。それだけ、地元の方によって愛着のあるお寺だということがわかりました」(清水)
 そしてついに、町民の方々が待ちに待った本堂が竣工となる。それは震災後8年目を迎えた2019年3月のこと。3.11、新しい本堂で震災法要と共に檀家へのお披露目が行われた。(後編に続く)

取材協力:池田建設株式会社
http://www.ikeda-kk.co.jp/
執行役員 支店長 矢島 裕氏
建設部カスタマー・リニューアル課 課長兼 本社営業部 社寺担当部長 清水 義之氏

取材・執筆 伊藤秋廣(エーアイプロダクション)

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